地蔵菩薩
| 地蔵菩薩 | |
|---|---|
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| 名 | 地蔵菩薩 |
| 梵名 |
「クシティガルバ」 (क्षितिघर्भ Kṣitigarbha) |
| 別名 | 中国語:地藏菩薩 (Dì Zàng Pú Sà) |
| 経典 |
『法華経』 『地蔵菩薩本願経』 |
| 信仰 | 地蔵信仰・六地蔵・地蔵盆 |
地蔵菩薩(じぞうぼさつ)は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。釈尊が入滅してから弥勒菩薩が成仏するまでの無仏時代の衆生を救済することを釈迦から委ねられたとされる[1]。 地蔵菩薩の信仰は、単一の性格だけによって説明することが難しい。大乗仏教の教義上は、衆生を救済する大願を立てた菩薩として位置づけられ、とりわけ六道の衆生を救う存在、「六道能化」として理解されてきた。一方、東アジア、とくに日本の民間信仰においては、地獄における衆生の救済、死者の追善、子どもの守護、旅人や道行く人々の守護、安産・子育て、病気治癒など、極めて多様な役割を担うようになった[2][3]。
日本の地蔵信仰を理解するうえでは、経典上の地蔵菩薩と、後世の日本社会で形成された「地蔵」のイメージとを区別する必要がある。地蔵は仏教経典に説かれる菩薩である一方、日本では道祖神などの在来信仰と習合し、村落の境界、峠、辻、橋のたもと、墓地などに石像として安置されるようになった。また、地域社会の祭祀や講、地蔵盆などを通じて、寺院内部の仏教信仰を越えた民俗的・社会的機能を持つに至った[2][3]。
地蔵菩薩は、しばしば釈迦入滅後から弥勒菩薩が成仏してこの世に出現するまでの「仏なき時代」において衆生を教化・救済する存在として説明される。日本の仏教文献や図像解説でもこの理解が広く認められており、京都国立博物館は地蔵菩薩について、弥勒が出現するまでの時代に衆生を救う役割を担うため、僧侶と同じように頭を丸め袈裟を着けた姿で表されることが多いと説明している[4]。もっとも、地蔵菩薩の歴史的成立については、単純に「インドで成立した地蔵信仰が中国を経て日本へ伝来した」とするだけでは不十分である。近年の研究では、中国・中央アジアにおける地蔵(地藏、Dizang)信仰の形成過程が重視されており、現在知られる地蔵菩薩の宗教的性格、経典、図像、冥界救済などの諸要素が、長い歴史の中で複合的に形成されたことが指摘されている。Zhiru Ngは、地蔵を単純な「インド起源の菩薩が中国化・民間化した存在」とみなす従来の進化論的モデルを再検討し、中世中国における地蔵信仰が複数の宗教的・社会的・図像的要素から形成されたことを論じている[5][6]。しかし、地蔵菩薩が常に僧形で表されるわけではない。密教系の図像では、通常の菩薩と同じように髻を結い、冠や瓔珞などの装身具を着けた菩薩形として表される場合がある。胎蔵界曼荼羅の地蔵院においても、地蔵は菩薩形の尊像として表される。このことから、現代日本で広く知られている「僧侶姿の地蔵」は、地蔵菩薩の図像全体の一形態であり、地蔵の歴史的・宗教的表現を完全に代表するものではない[2]。
日本の地蔵信仰には、中央の寺院に本尊として祀られる地蔵と、地域社会の生活空間に置かれる路傍の地蔵という二つの側面がある。前者は寺院の仏教儀礼、講、供養などと結びつく一方、後者は村境や辻などの空間を守護する存在として信仰され、地域の祭祀や民俗行事の中心となることがある。このような地蔵のあり方は、日本における仏教と在来信仰の習合を考える上でも重要である[2][3]。
地蔵信仰の多様性は、地蔵に付される名称にも表れている。日本各地には、子育て地蔵、子安地蔵、延命地蔵、勝軍地蔵、いぼ取り地蔵、雨降り地蔵、雨止み地蔵など、特定の利益や霊験と結びついた多数の地蔵が存在することが知られている。こうした名称は、地蔵菩薩そのものが多数の別個の菩薩に分裂したことを意味するものではなく、同一の地蔵菩薩に対して地域ごとに異なる願いや霊験が付与された結果と考えられる[2]。また、地蔵菩薩は東アジアの大乗仏教において、観音菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩などと並ぶ重要な菩薩として扱われることがある。とくに中国・日本では、観音が現世の苦悩から広く衆生を救済する存在として発展したのに対し、地蔵は六道、地獄、死者、子どもなど、生命の苦悩や死後の世界と結びついた救済者として強く信仰されるようになった。ただし、この役割分担は固定的な教義ではなく、地域・時代・宗派によって重なり合う[6][5]。
サンスクリット語では「クシティガルバ」(क्षितिघर्भ [Kṣitigarbha]) という[7]。クシティは「大地」、ガルバは「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」としており[8]、これは「大地を包含するもの」の意である[9]。三昧耶形は蓮華上に宝珠幢[9] [注 1]。種字は ह・𑖮(ha [ハ]、カ)[10]。
現世の人々が生きる大地はもとより、地下の地獄において救済や利益がある菩薩として広く信仰された[11]。
日本における民間信仰では、道祖神としての性格を持つとともに、「子供の守り神」として信じられている[12]。日本では一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」「お地蔵様」と呼ばれる[13]。
名称・語源
[編集]「地蔵」は、サンスクリット語 Kṣitigarbha の漢訳語である。kṣiti は「大地」を意味し、garbha は「胎」「胎内」「子宮」「蔵」などを意味する語である。このため、Kṣitigarbha は「大地の胎」「大地の蔵」などと理解され、日本語では「地蔵」と訳された[2][6]。
「地蔵」という漢訳には、大地が生命を育み、あらゆるものを包み込むという象徴的意味が重ねられている。日本大百科全書は、地蔵の名称を、生命を生み育む大地のような可能性を内包する菩薩という意味から説明している。この解釈は、地蔵が衆生を広く包摂し、その苦悩を救済する存在として理解されてきたこととも結びついている[2]。
一方、地蔵の名称については、単なる語源的な翻訳だけでなく、仏教思想における「蔵」の概念との関連も考えられてきた。すなわち、地蔵菩薩は大地のように広大な功徳や慈悲を内蔵し、それを衆生に施す存在として理解される。この意味で「地蔵」という名称は、地理的な大地を表すだけではなく、衆生救済の能力を包蔵する菩薩という宗教的象徴として機能している[2]。サンスクリット名 Kṣitigarbha は、東アジアでは中国語の「地藏」(Dìzàng)を経て、日本語の「地蔵」(じぞう)として定着した。現代の学術研究では、日本語の「地蔵」だけでなく、中国語の「地藏」やサンスクリットの Kṣitigarbha を併記して、歴史的な地域差を区別することがある。特に中国中世史を研究する場合、英語文献では「Dizang」という中国語音に由来する表記が用いられることが多い[6][5]。
日本語では、正式名称として「地蔵菩薩」と呼ぶほか、単に「地蔵」と呼ぶことも多い。また、親しみを込めて「お地蔵さん」「お地蔵様」と称する。この呼称は、地蔵が寺院内の尊像だけでなく、村落、街道、辻、墓地など日常生活に密接した場所に存在することと関係している[3]。
概要
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地蔵菩薩は、忉利天に在って釈迦仏の付属を受け、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道すべての世界(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)に現れて衆生を救う菩薩であるとされる[14](六道能化〈ろくどうのうげ〉[15])。
空を象徴する虚空蔵菩薩に対して地蔵菩薩は地を表すとされる[11]。
地蔵菩薩の起源は、インドのバラモン教の神話に登場する大地の女神プリティヴィー(地天)で[1][16]、大地を守護し、財を蓄え、病を治すといった利益信仰があり、これが仏教にも取り入れられ、地蔵菩薩が成立したとされる[1]。経典として「地蔵菩薩本願経」「大乗大集地蔵十輪経」「占察善悪業報経」が地蔵三経と呼ばれるが、「占察善悪業報経」は偽経とも言われる[1]。このように、地蔵菩薩は、経典上の菩薩、寺院の本尊、密教の曼荼羅における尊格、冥界の救済者、死者供養の対象、路傍の石仏、子どもの守護神、地域共同体の祭祀対象など、複数の宗教的・社会的役割を重ね持つ存在である。この多面性こそが、日本における地蔵信仰が長期間にわたって存続し、地域ごとに異なる形態をとりながら広く受容された大きな理由の一つと考えられる[2][5]。
地蔵菩薩の位置づけ
[編集]地蔵菩薩は、一般的な大乗仏教の菩薩思想における「自らの成仏のみを目的とせず、衆生救済のために活動する菩薩」という性格を持つ。とりわけ地蔵に関する経典では、地蔵が大願を立て、衆生の苦しみを救済する存在として描かれる。地蔵信仰において「大願」が重視されることから、地蔵はしばしば「大願地蔵」「大願地蔵菩薩」などの名称でも呼ばれる[5]。
地蔵の救済対象は、特定の階層や宗派に限定されない。六道のすべての衆生を対象とするという理解から、地獄の亡者だけではなく、人間界、畜生道、餓鬼道、修羅道、天道に生まれる衆生にも関わる菩薩とされる。この六道救済の思想は、後世の日本における「六地蔵」信仰の重要な基盤となった[17]。
ただし、地蔵菩薩の救済活動を「地獄の神」とだけ理解することは適切ではない。地蔵は地獄救済と強く結びつく一方、現世利益、病苦からの救済、旅の安全、出産・育児、死者の追善など、現世と来世の双方に関わる存在として発展した。研究者Hank Glassmanも、地蔵を中国・日本の宗教史における複合的な救済者として位置づけ、その歴史的展開を単純な地獄信仰の成立だけでは説明できないことを示している[6]。
像容
[編集]剃髪した声聞・比丘形(僧侶の姿)で白毫があり、衲衣を身にまとう[13]。左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ形をとる像が多く、手を与願印(掌をこちらに向け、下へ垂らす)や施無畏印の印相にする場合もあり、子供を抱いたり経を持つ像もある[13]。
しかし密教では胎蔵曼荼羅地蔵院の主尊として、髪を結い上げ装身具を身に着けた通常の菩薩形に表され、右手は右胸の前で宝珠を持ち、左手は先に宝珠が付いた幢(幢を乗せた蓮華)を持つ[18]。 地蔵菩薩の図像は、時代・地域・宗派によって大きく異なる。日本で最も一般的に知られているのは、頭を剃り、袈裟を着けた僧形の地蔵であり、右手に錫杖、左手に如意宝珠を持つ立像である。平安時代中期以降、この形式が広く定着したとされる。『精選版 日本国語大辞典』も、地蔵菩薩が一般には僧形で表され、平安時代中期以降、宝珠と錫杖を持つ姿が一般化したことを記している[19]。
一方、密教の図像では、地蔵菩薩は髻を結い、宝冠や瓔珞などを身につけた通常の菩薩形として表されることもある。このため、現代日本で一般的な僧形像だけをもって、地蔵菩薩の本来の図像を一種類に限定することはできない[19]。
たとえば、平泉・中尊寺金色堂に伝わる12世紀の六地蔵は、阿弥陀三尊像とともに安置されており、東京国立博物館は、この組み合わせが六道輪廻からの救済を願う当時の往生思想を示すものと説明している[20]。
功徳利益
[編集]『地蔵菩薩本願経』には、二十八種利益と七種利益が説かれている。
- 二十八種利益
- 天龍護念(天と龍が守護してくれる)
- 善果日増(善い行いの果報が日々増していく)
- 集聖上因(悟りの境地へ至る因縁が集まってくる)
- 菩提不退(悟りの境地から後退しない)
- 衣食豊足(衣服や食物に満ち足りる)
- 疾疫不臨(疫病にかからない)
- 離水火災(水難や火災を免れる)
- 無盗賊厄(盗賊による災厄に遭わない)
- 人見欽敬(人々が敬意を払って見てくれる)
- 神鬼助持(神霊が助けてくれる)
- 女転男身(女性から男性になれる)
- 為王臣女(王や大臣の令嬢になれる)
- 端正相好(端正な容貌に恵まれる)
- 多生天上(天界に生まれ変わる事が多い)
- 或為帝王(あるいは人間界に生まれ変わって帝王になる)
- 宿智命通(過去世〈宿命、しゅくみょう〉を知る智慧を持ち、過去世に通ずる)
- 有求皆従(要求があれば皆が従ってくれる)
- 眷属歓楽(眷属が喜んでくれる)
- 諸横消滅(諸々の理不尽な事が消滅していく)
- 業道永除(地獄などの悪い場所に生まれ変わらせる業道〈karma-patha〉が永く除かれる)
- 去処盡通(赴く場所にうまくいく)
- 夜夢安楽(睡眠中に安らかな夢を見る)
- 先亡離苦(先祖・先亡の霊が苦しみから解放される)
- 宿福受生(過去になした善行によって良い生まれを受ける)
- 諸聖讃歎(諸聖人が讃えてくれる)
- 聰明利根(聡明で利発になる)
- 饒慈愍心(慈悲の心に溢れる)
- 畢竟成佛(必ず仏に成る)
- 七種利益
- 速超聖地(さらにすぐれた境地へ速やかに進める)
- 悪業消滅(悪いカルマが消滅する)
- 諸佛護臨(諸々の仏が護ってくれる)
- 菩提不退(悟りの境地から後退しない)
- 増長本力(本来持っていた能力が増幅される)
- 宿命皆通(過去世の全てに通ずる)
- 畢竟成佛(必ず仏に成る)
地蔵菩薩は、大乗仏教において衆生救済を誓願した菩薩として信仰され、日本では特に六道の衆生、地獄に堕ちた者、死者、子どもなどの救済と結びついてきた。『精選版 日本国語大辞典』は、地蔵菩薩について、六道の一切衆生の苦を除き福利を与えることを願いとし、特に地獄の衆生を教化する菩薩と説明している[19]。
地蔵の功徳を体系的に説く代表的な経典には、『大乗大集地蔵十輪経』、『地蔵菩薩本願経』、『占察善悪業報経』などがある。特に『占察善悪業報経』は、六世紀末頃の中国撰述と考えられ、地蔵信仰と懺悔・滅罪の実践を結びつけた経典として研究されている。伊藤真は、『占察経』における地蔵菩薩の役割を再検討し、従来単純に「占いの経典」として評価されてきた見方を批判的に検討している[21]。
『往生要集』では、『地蔵十輪経』の趣旨として、地蔵菩薩が朝ごとに深い禅定に入り、法界に遍く存在して苦しむ衆生を救うこと、また地蔵の名を称えることの功徳が非常に大きいことが説かれている。こうした地蔵の功徳観は、平安時代の日本における地蔵信仰を理解する上でも重要である[22]。 地蔵の利益として後世の日本で特に強調されたものには、災難からの救済、病苦からの救済、長寿、旅の安全、死者の救済、子どもの守護、安産・子育てなどがある。ただし、これらをすべて同一の経典において同一の形で説かれているとするのは正確ではなく、経典上の功徳、寺院での祈願、地域の民間信仰などを区別する必要がある[19]。
日本の地蔵信仰では、地蔵が「現世利益」と「死後の救済」の双方を担うことが特徴的である。地蔵は死後の六道において衆生を救済するだけではなく、現世の人間に対しても災難を避け、願いをかなえ、生活上の苦難を除く存在として信仰された。この二重の性格によって、地蔵は寺院の仏教儀礼だけでなく、路傍の石仏や地域の祭祀にも広く受け入れられた[19]。
『今昔物語集』巻十七には32話の地蔵霊験譚が収録されている。京都市の文化財・伝統行事に関する資料では、これらの説話には、地蔵が人々を危機から救う話、願いをかなえる話、信仰者を改心させる話、死者を蘇生させる話、地獄に堕ちた者を救う話などが含まれるとされている[23]。
地蔵信仰における功徳は、単なる「願いをかなえる力」としてだけ理解されるものではない。地蔵は、衆生が自らの業や苦しみに直面した際に、その苦を乗り越え、善行・信仰・懺悔などを通じて救済へ向かうことを助ける菩薩としても理解された。この点は、地蔵信仰が単純な現世利益信仰だけでは説明できないことを示している[21]。
真言
[編集]オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ [24](Oṃ ha ha ha vismaye svāhā)
邦訳すれば『オーン、ha・ha・ha(地蔵菩薩の種子を3回唱える)、希有なる御方よ、スヴァーハー』となる[10]。 地蔵菩薩の真言として日本で広く知られているものは、
- オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ
とされる。寺院や地蔵供養、地蔵盆などにおいて唱えられることがあり、京都の地蔵盆に関する調査資料でも地蔵菩薩の真言としてこの句が記録されている[25]。
寺院によっては、表記・発音に「ビサンマエイ」「ビサンマエ」「ビスミエイ」などの異同がみられる。東京北区の福性寺では、現代の僧侶による発音として「オンカカカビサンマエイソワカ」および「オンカカカビスミエイソワカ」が紹介されている[26]。
「オン」「ソワカ」などの部分は、密教系の真言で一般的に用いられる音写語として理解される。一方、「カカカ」や「ビサンマエイ」の各音を日本語の単語のように逐語訳し、そこから一つの固定した日本語文章を導くことについては慎重さが必要である。現代の寺院・信仰者による解釈には差があり、民間サイトに見られる逐語的・霊験的説明を、そのまま仏教学上の確定した語源解釈とすることはできない[26]。
地蔵真言は、地蔵菩薩そのものを象徴する音声として、地蔵菩薩への帰依・礼拝・祈願などの宗教実践と結びついている。京都市の調査資料では、地蔵に対する儀礼の中で印を結び、この真言を唱え、その後に『法華経』の自我偈を唱和する例も記録されている[25]。
地蔵菩薩の真言は、特定の願いを機械的にかなえる呪文というより、仏教儀礼において地蔵菩薩への帰依と祈願を表明するための真言として理解する方が適切である。日本の寺院では、地蔵盆、供養、法要などの宗教行事の中で用いられている[25]。
信仰
[編集]地蔵菩薩への信仰は、経典・寺院・修験道・民間信仰・地域共同体など複数の領域にまたがって形成された。日本において地蔵は、観音菩薩などと並ぶ身近な菩薩であると同時に、墓地や道路、村境など生活空間に置かれる石仏としても発展した[19]。
平安時代以降、地蔵は冥界・地獄との関係を強めていった。東京国立博物館は、六波羅蜜寺周辺の鳥辺野が中世には埋葬地として認識され、その地域が冥界へ通じる場所と考えられたこと、六道のいずれにも現れて衆生を救う存在として地蔵が厚く信仰されたことを説明している[27]。
地蔵信仰は死者の供養とも強く結びついた。特に中世以降、地蔵は死者が六道のいずれかに転生する過程において救済を与える存在として理解され、墓地や葬送空間に地蔵像が設置されるようになった。地蔵のこの性格は、後世の六地蔵信仰や水子供養などにも影響した[27]。
また、地蔵は子どもとの結びつきが非常に強い。子安地蔵、子育て地蔵、水子地蔵などの名称が全国に見られ、幼児の成長、安産、子どもの無事、死産・流産などによって失われた子どもの供養など、多様な願いと結びついている。ただし、水子供養を含む近代以降の地蔵信仰の形態については、地域・寺院・時代による違いが大きい[19]。 地蔵は毎月24日を縁日とする信仰が広く知られている。『今昔物語集』の地蔵説話にも、24日が地蔵菩薩の縁日として登場する例がある[28]。
地蔵盆は、その信仰が地域共同体の行事として発展した代表例である。特に京都を含む近畿地方では、町内ごとに地蔵像を祀り、子どもを中心とした祭りとして地蔵盆が営まれてきた。地蔵盆では、地蔵像への供物、飾り付け、読経、真言、数珠回しなど、地域によって多様な行事が行われる[23]。
名称の異訳・異称
[編集]地蔵菩薩の名称については、漢訳仏典や仏教辞典において複数の訳名・異称が伝えられている。代表的な名称が「地蔵」であるが、地蔵の性格を大地、慈悲、功徳、救済などの観点から理解した異なる漢訳・解釈が存在する。密教・顕教の文献、図像資料、後世の注釈書などによって用語には差異があるため、すべての異称を同一の時代・地域で一般的に使用された名称として扱うことには注意を要する[2]。
日本の仏教史では、「地蔵尊」「地蔵菩薩」「地蔵大士」などの表現が用いられるほか、信仰対象としての地蔵像そのものを「地蔵」と呼ぶ場合もある。とりわけ民間信仰では「○○地蔵」という名称が非常に多く、地蔵の宗教的機能が地域ごとの生活上の願いと結びついていることがわかる[2]。


中国における地蔵信仰
[編集]偽経とされる『仏説閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』(預修十王生七経)に基いた「十王経図巻」において地蔵菩薩は道教の十王と結び付けられ、地蔵菩薩は閻魔と同一の存在と考えられた[29]。中国においては地藏王菩薩とも呼ばれた[30]。
日本の神奈川県横浜市中区にも、死者の永眠を祀る地藏王廟(中華義荘)が華僑によって建立されている。
また、明代の小説である『西遊記』でも、冥界を司る地藏王菩薩が孫悟空(斉天大聖)の暴れっぷりを地獄から天の玉皇大帝に上奏する場面が描かれている。
地藏王菩薩の聖地は、安徽省にある九華山である[30]。これは、新羅の地蔵という僧(696年 - 794年、俗名金喬覚)が[30]、この地にある化城寺に住したことに因むものである[31]。齢99で入滅した地蔵は、3年たってもその顔貌が生前と全く変わることがなかったことから、地蔵は地藏菩薩の化身と信じられたのである[30]。その故事によって、文殊菩薩の五台山、普賢菩薩の峨眉山、観音菩薩の普陀山と並ぶ中国仏教の聖地(中国四大仏教名山)として、今日まで信仰を集めている[31]。
日本における地蔵信仰
[編集]日本においては、平安時代以降、浄土信仰の高まりと共に地獄における救済者として信仰された[11]。特に11世紀に『地蔵菩薩霊験記』が編纂されて以降は、浄土に往生出来ない者は必ず地獄へ落ちると考えられる様になり、地獄で苦しみを代わりに受けてくれる「地蔵代受苦」の信仰が強まることとなった[11]。
人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた他、際立って子供の守護尊とされた[32]。
賽の河原で、獄卒に責められる子供を、地蔵菩薩が守る姿は、仏教歌謡「西院の河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供の守護者としての地蔵信仰を集めた[33]。関西では地蔵盆は子供中心の祭である[34]。
平安末期から中世にかけて民間信仰として普及されるようになった[35]。現在、何々地蔵と呼ばれる名称は100以上にも及び、その信仰内容が極めて多様なことが分かる[35]。とげぬき地蔵、いぼ取り地蔵、夜泣き地蔵、子育て地蔵、子安地蔵、乳貰い地蔵、親子地蔵、腹帯地蔵、雨降地蔵、雨止み地蔵、お初地蔵、延命地蔵[35]、目疾地蔵などがその例である[36]。そして、田植地蔵[35]、しばられ地蔵[37]、言うな地蔵(横向き地蔵)、笠地蔵といった様々な伝承も残されている。
六地蔵
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日本では、地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる。これは、仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6つの世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道の衆生を6種の地蔵が救うとする説から生まれたものである[38]。『地蔵本願教』によれば、あの世とこの世の境である六道の入口に地蔵が立ち衆生を教化すると考えられた[11]。六地蔵の個々の名称や姿には異説が多い[11]。『覚禅鈔』では地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順に大定智悲地蔵、大徳清浄地蔵、大光明地蔵、清浄無垢地蔵、大清浄地蔵、大堅固地蔵と呼ばれるが[39]、檀陀(だんだ)地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障(じょがいしょう)地蔵、日光地蔵と称する場合や[40]、それぞれ金剛願地蔵、金剛宝地蔵、金剛悲地蔵、金剛幢地蔵、放光王地蔵、預天賀地蔵と称する場合(『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』)もあり[39]、文献によっては以上のいずれとも異なる名称を挙げているものもある[注 2]。像容は合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠、花籠、月輪、輪宝などを持物とする[39]。
六地蔵像は墓地に祀られることが多い[38]。中尊寺金色堂には、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに6体の地蔵像が安置されているが、各像の姿はほとんど同一である[42]。 六地蔵(ろくじぞう)は、六道のそれぞれに対応して衆生を救済する地蔵菩薩を、六体一組として表したものである。六道とは、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道をいう[20]。
六地蔵は、日本では墓地、寺院、街道、峠、村境などに多く見られる。六体を横一列に並べた石仏は特に有名であるが、必ずしも六体の像が同一形式であるとは限らず、持物、印相、衣文、台座などには地域・時代による差がある。
平泉の中尊寺金色堂には、12世紀の六体の地蔵菩薩立像が伝わっている。これらは阿弥陀三尊像の両側に三体ずつ配置されており、東京国立博物館は、阿弥陀三尊と六地蔵の組み合わせが、六道輪廻からの救済を願う当時の往生思想を体現するものと説明している[20]。
六地蔵は、単に「地蔵が六体いる」という意味ではない。六道それぞれに地蔵の救済力が及ぶという思想を、視覚的・儀礼的に表現したものである。したがって六地蔵は、地蔵菩薩が「六道能化」と呼ばれる理由を最もわかりやすく示す図像の一つである[20]。
六地蔵の個々の尊名や持物には異説がある。特に密教系・地蔵信仰系の図像資料では、六地蔵をそれぞれ異なる名称で呼び、異なる印相や持物を割り当てる伝承が存在するため、「六地蔵には全国共通の六つの正式名称がある」と単純化することはできない。
京都の法住寺で行われる「六地蔵めぐり」では、地獄道の地蔵を金剛願地蔵とし、他の六道についてもそれぞれ異なる地蔵名を用いている。このような六地蔵の名称体系は、地蔵信仰が寺院ごとの儀礼・伝承と結びついて展開してきたことを示している[43]。
勝軍地蔵
[編集]勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)は、地蔵菩薩の一形態で、戦勝、敵の退散、災難除けなどと結びついた地蔵信仰である。日本では鎌倉時代以降、武家社会との関係を強め、甲冑を着け、武器を持ち、馬に乗る姿などで表されることがある[44]。この点から、勝軍地蔵の「勝軍」は、必ずしも現実の戦争における勝利だけを意味するものではない。仏教的には、煩悩、悪業、天魔などを克服することも「軍に勝つ」こととして表現される。『大乗大集地蔵十輪経』にも、地蔵が天魔を降し、煩悩の賊を断つことを軍事的比喩によって表現する箇所がある[45]。
中世の勝軍地蔵信仰については、神仏習合や修験道、武家の祈願、戦争などが複雑に関係した。国立歴史民俗博物館の研究資料では、勝軍地蔵が日本中世における神仏の戦争を背景として成立した「軍神(イクサガミ)」的な性格を持ち、征夷大将軍に関する物語などとともにその軍神的性格が強まったと論じられている[46]。
愛宕山の地蔵信仰は勝軍地蔵の代表的な展開の一つである。神仏習合のもとで愛宕権現と勝軍地蔵が結びつき、火伏せ、災難除け、武家の信仰など多様な機能を持つようになった。『今昔物語集』などの文献にも地蔵と愛宕山を結びつける伝承がみられる[47]。
『精選版 日本国語大辞典』は、勝軍地蔵について、坂上田村麻呂が東征に際して戦勝を祈って作ったという伝承を紹介し、鎧・兜を着け、錫杖と如意宝珠を持ち、軍馬に乗る姿として説明している。ただし、坂上田村麻呂起源説は伝承として扱うべきであり、勝軍地蔵の歴史的成立をその伝承だけで説明することはできない[48]。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースでは、『密教大辞典』、『地蔵菩薩の研究』、『地蔵信仰』などを参照し、勝軍地蔵が単なる軍事的な戦勝だけでなく、「悪業煩悩の軍」に勝つ地蔵という宗教的意味を持つことが紹介されている[45]。兜と鎧を身に着けて、右手に錫杖、左手に如意宝珠を持ち、馬に乗った姿で表される[49]。勝軍地蔵を念ずれば戦に勝利するとされ、武家の信仰を集めた[50]。また過去世に犯した罪の報いをまぬがれたり、飢饉を防ぐともされた[50]。
愛宕権現の本地仏であり[51]、大宝年間、役小角が白山修験の開祖とされる泰澄と山城国愛宕山に登ったとき、龍樹菩薩、富楼那尊者、毘沙門天、愛染明王を伴い大雷鳴とともに地蔵菩薩が現れたという伝承が残る[52]。また、日羅上人を勝軍地蔵と同一視する場合もあり、さらに『元亨釈書』には清水寺の延鎮が勝軍地蔵と勝敵毘沙門天の両尊に坂上田村麻呂の戦勝祈願を行ったことが記されている[52]。
民俗学者・柳田國男は勝軍地蔵の「勝軍」はシャグジ(石神、塞神〈道祖神〉)の転訛であり、勝軍地蔵は地蔵菩薩の道祖神的な性格に由来すると唱えた[53]。さらに、歴史学者・黒田智はこれに加えて『源平盛衰記』に地蔵菩薩や陰陽道の大将軍や平安遷都の際に築かれた将軍塚が王城の境界を鎮護する役割を果たしているという内容が書かれていることから、これらの「将軍」の名が「勝軍」と結び付き勝軍地蔵誕生の由来の一つとなったと考察している[53]。
鬼門地蔵
[編集]『中日新聞』(2020年)によれば、愛知県半田市亀崎地区には「鬼門地蔵」と称する地蔵がある。個人宅の鬼門方向に祀られ、2003年の調査では、同地区で約70体が確認されている。史料はなく、由緒は不明という[54]。鬼門地蔵という名称については、一般的な仏教経典における地蔵菩薩の正式な別名として広く確立しているものではなく、日本各地の地蔵信仰や寺社縁起、地域的な呼称の文脈で扱う必要がある。
「鬼門」は、陰陽道において北東の方角を指し、災厄や邪気が侵入すると考えられた方角である。日本の寺院・神社・城郭・屋敷などでは、鬼門を鎮護するための宗教的施設や尊像が置かれる場合があった。地蔵が鬼門と結びつけられる場合には、地蔵の持つ守護・除災・境界守護の性格が、鬼門を鎮める機能と重ね合わされたと考えられる。
ただし、「鬼門地蔵」という語については、勝軍地蔵や六地蔵のように全国的に定型化した図像類型として扱うには資料上の制約がある。そのため、個別の寺院・石仏・地域伝承について「鬼門地蔵」と称される例を記述する場合は、当該寺院の由緒や地域史など一次資料に基づいて記載することが望ましい。
法蔵地蔵尊
[編集]
東京・小石川の伝通院の正門を入って境内左側にある銅像の仏。中央の本尊は「法蔵地蔵尊」で、脇待は向って右が観世音菩薩、左が勢至菩薩である。このような組み合わせの三尊は異例。法蔵菩薩から仏となった阿弥陀如来が、あえて、大衆信仰の親しみやすい地蔵の姿をもって出現したもの[55][56]。
地蔵菩薩に関する伝承
[編集]古代インド王の転生
[編集]『地蔵菩薩本願経』によると、昔、インドに大変慈悲深い2人の王がいた。一人は自らが仏となってから人を救おうと考え、一切智成就如来という仏になった。だが、もう一人の王は先に人を悟りの境地に渡してから自らも悟ろうと考えた。それが地蔵菩薩である[57]。
道祖神との関係
[編集]先に述べた「六地蔵」とは六道それぞれを守護する立場の地蔵尊であり、他界への旅立ちの場である墓地に建てられた[11]。また、境界神的な性格から道祖神信仰と結び付き、村の入り口に地蔵が建てられることもあった[11]。先述の通り勝軍地蔵も道祖神との習合により生まれた尊格といわれる。
日本の地蔵信仰は、多数の説話・霊験譚・昔話によって広められた。代表的な説話集の一つが『今昔物語集』であり、巻十七には地蔵菩薩に関する32話が収録されている。これらの説話では、地蔵が人間の危機を救うだけでなく、死者の蘇生、地獄からの救済、信仰者の改心、現世利益など、幅広い奇瑞を示す存在として描かれている[23]。
『今昔物語集』の地蔵説話には、地蔵菩薩が人間の姿をとって現れる、あるいは人間が地蔵の化身と考えられる人物に出会うという「化身」のモチーフもみられる。こうした説話は、地蔵が特定の寺院や像の中だけに存在するのではなく、必要とする衆生の前に姿を現すという信仰を物語化したものである[28]。
また、『今昔物語集』には、地蔵への帰依によって人間の生き方が変化する物語もある。地蔵を信仰することで悪人が善心を起こし、死後の救済を得るといった話は、地蔵の霊験を単なる奇跡ではなく、信仰による倫理的変化として表現している。
地獄に関する地蔵説話は特に重要である。研究によれば、『今昔物語集』巻十七の32話のうち14話が地獄に関係し、その内訳には地獄から蘇生する話12話、地獄を巡る話2話が含まれる。これらの説話では、閻魔王の裁判官としての権威よりも、地蔵が地獄の苦しみから人を救う力が強調される傾向が指摘されている[58]。
『日本霊異記』から後代の『地蔵菩薩霊験記』に至るまで、地蔵説話は繰り返し受容・再構成された。国立国会図書館の書誌資料にも、地蔵説話が『日本霊異記』から十四巻本『地蔵菩薩霊験記』まで展開したことを扱う研究が登録されている[59]。
垂迹神・化身
[編集]神仏習合のもとで地蔵菩薩の垂迹とされる神としては、先述の勝軍地蔵を本地とする愛宕神[51]や春日大社の天児屋根命がおり[60]、閻魔大王の本地も地蔵菩薩とされる[61]。
地蔵菩薩を祀る寺院の例
[編集]- 法隆寺(奈良県斑鳩町) - 平安時代前期(大御輪寺旧蔵)
- 岩水寺(静岡県浜松市) - 鎌倉時代、裸形系着装像
- 木之本地蔵院(浄信寺、滋賀県長浜市) - 日本三大地蔵尊、鎌倉時代
- 広隆寺(京都府京都市) - 平安時代(埋木地蔵)
- 六波羅蜜寺(京都府京都市) - 鎌倉時代、運慶作(推定)
- 六波羅蜜寺(京都府京都市) - 平安時代(鬘掛地蔵)
- 浄瑠璃寺(京都府木津川市) - 平安時代
- 帯解寺(奈良県奈良市) - 鎌倉時代(帯解子安地蔵)
- 東大寺(奈良県奈良市) - 鎌倉時代、公慶堂安置、快慶作
- 東大寺(奈良県奈良市) - 鎌倉時代、念仏堂安置、康清作
- 福智院(奈良県奈良市) - 鎌倉時代、地蔵菩薩を本尊とする
- 伝香寺(奈良県奈良市) - 鎌倉時代(法服地蔵)
- 室生寺(奈良県宇陀市) - 平安時代(五尊像の一つとして)
- 宝戒寺(神奈川県鎌倉市) - 仏師憲円の作
- 善願寺(京都府京都市) - 平安時代(腹帯地蔵)
- 菩提寺(青森県むつ市) - 恐山の中核をなす寺院、地蔵菩薩を本尊とする
- 牛久成田山真浄寺(茨城県牛久市) - 水子を守護する水子地蔵尊
- 高岩寺(東京都豊島区) - 巣鴨とげぬき地蔵尊
- 建長寺(神奈川県鎌倉市) - 地蔵菩薩を本尊とする
- 誓安寺(岐阜県岐阜市) - 弥八地蔵
- 壬生寺(京都府京都市) - 地蔵菩薩を本尊とする
- 朝田寺(三重県松阪市) - 平安時代作の地蔵菩薩を本尊とする
- 宝珠寺(和歌山県新宮市)- 鎌倉時代作の足の親指を上げている希な銅像の地蔵菩薩を本尊とする
- 延命寺(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)- 地蔵菩薩を本尊とする
- 如意寺(兵庫県神戸市)- 地蔵菩薩を本尊とする
- 本光寺(千葉県市川市大野町)- 水子供養地蔵尊、水子供養地蔵尊と命名された最初の水子地蔵
- 大雲寺(岡山県岡山市)- 日限地蔵で知られる、子宝祈願
- 生蓮寺(奈良県五條市)- 雨晴れ地蔵、雨乞い晴れ乞い
- 矢田寺(奈良県大和郡山市) - 地蔵菩薩を本尊とする
- 西念寺(長野県佐久市) - 幼児40名の供養(子育地蔵柳堂)
- 大福寺(愛媛県西条市) - 本尊は秘仏・延命地蔵三尊
地蔵菩薩に関連する仏典
[編集]- 地蔵三経
- 『地蔵菩薩本願経』
- 『大乗大集地蔵十輪経』
- 『占察善悪業報経』
- 密教経典(金剛乗経典)
- 『仏説地蔵菩薩陀羅尼経』
- 中国で成立したとされる偽経
- 『仏説閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経』
- 日本で成立したとされる偽経
- 『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』
- 『仏説延命地蔵菩薩経』
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- 1 2 3 4 鏡花の女人救済の原型(諸岡哲也)仏教大学大学院紀要文学研究科篇第47号(2019年3月)
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 総合信孝. “地蔵菩薩”. 日本大百科全書. 小学館、コトバンク. 2026年8月15日閲覧。
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- ↑ 京都観光Navi・目疾地蔵 - 京都市
- ↑ 業平院南蔵院・願かけ しばられ地蔵尊
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- ↑ “後白河院・発願「六地蔵めぐり」”. 法住寺. 2026年8月15日閲覧。
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- ↑ 「地蔵」 - 世界大百科事典 第2版
- ↑ 李時準「地蔵関連地獄説話:『今昔物語集』から『一四巻本地蔵菩薩霊験記』への変容」『日本文化學報』第40号、2009年、199-215頁、doi:10.21481/jbunka..40.200903。
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参考文献
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- 黒田智『たたかう神仏の図像学-勝軍地蔵と中世社会』吉川弘文館、2021年12月。ISBN 9784642016667。
関連文献
[編集]- 速水侑『観音・地蔵・不動』吉川弘文館、2018年。ISBN 9784642067621。
- 清水邦彦『お地蔵さんと日本人』法藏館、2023年7月。ISBN 9784831862730。
- 太田久紀『お地蔵さんのお経-地蔵菩薩本願経講話』大法輪閣、2023年。ISBN 9784804614427。