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南解次次雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
南解次次雄
新羅
第2代国王
王朝 新羅
在位期間 4年 - 24年
都城 金城
生年 不詳
没年 24年9月以降
赫居世居西干
閼英夫人
陵墓 虵陵
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南解次次雄
各種表記
ハングル 남해 차차웅
漢字 南解次次雄
発音: ナメ・チャチャウン
日本語読み: なんかいじじゆう/なかつつのを
ローマ字 Namhae Chachaung
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南解次次雄(なんかいじじゆう/なかつつのを、生年不詳 - 24年)は、新羅の第2代の王(在位:4年 - 24年)であり、姓は朴。二聖と称される新羅始祖赫居世居西干閼英夫人との間の長男。

治世

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紀元4年3月に赫居世の死去を受けて即位した。同年7月には楽浪の侵入を受けて首都の金城が何重にも包囲された。このとき、王は自らの不徳を嘆いて群臣にどうするべきかを尋ねたところ、臣下の者は「我々が喪に服していることを恃んで賊が攻めてきたのであって、天佑は賊には及ばないであろうから、恐れることはない」と言った。やがて楽浪の兵は引き上げた。

賢者の昔脱解(後の第4代王の脱解尼師今)の噂を聞きつけて取立て、王の長女を嫁がせ、10年7月には大輔の役につかせ、軍事及び政治を任せた。

14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。

24年の9月以降に在位21年にして死去し、始祖赫居世の陵である虵陵(現在地未詳)の域内に葬られた。

王の称号

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三国史記』及び『三国遺事』では金大問(8世紀の新羅の学者)の解説として、「次次雄」は「慈充」ともいい、巫(シャーマン)を表す語とし、鬼神に仕えるシャーマンへの畏怖から転じて尊称になったとする説を唱えた。そのため、『三国史記』では「次次雄とは、方言(新羅語)で巫を指す」と記しているものの、その語源的根拠は他に見当たらず、「次次雄」の称号をもつ王が他には存在しないため、この説は「次次雄」の語源が分からなくなった後に、古代の王が祭祀を司っていたことなどから「巫(シャーマン)」という意味を後付けでこじつけた可能性が高いと考えられている。

住吉の神名との一致

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「南解次次雄」の王名を日本語の宛字と解するならば、「ナカツツノヲ」と読むことが可能で、これは三韓征伐を導いた住吉大社の神・中筒之男(ナカツツノヲ)と同名となる。さらに古事記日本書紀においては、新羅王が服属した証として王城の門に住吉の神を祀らせた旨が記載されている[1]。この説は、江戸時代初期の伊勢神宮の神職・度会延経が唱え、新井白石が『古史通』で記した。松下見林が『異称日本伝』、栗山潜鋒が著書『保建大記』で記し、国学者・谷川士清も『和訓栞』を著して紹介した。歴史考証家の藤貞干も著書『衝口発』でこれを記し、江戸後期の国学者・伴信友も著書『中外経緯伝』でこれを記載しており、江戸時代を通じて定説とされたポピュラーなものであった。

家系

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系図

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N/A사소부인
娑蘇夫人
혁거세 거서간
赫居世居西干
알영부인
閼英夫人
남해 차차웅
南解次次雄

注釈

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  1. 仲哀記において「建内宿禰が神託を請うと、仲哀天皇の后、息長帯日売命(神功皇后)に神がかりし、天皇に対して、帰服させるべき西方の国(新羅国)の存在を示すが、天皇は虚言として信じず、祟りを受けて崩御する。建内宿禰が再び託宣を請うと、その国は神功皇后の身ごもった男子(応神天皇)が治めるべきことを告げる。その際、神の名前を請うと、自分は底筒之男・中筒之男(ナカツツノヲ)・上筒之男の三柱の大神であると、初めて名前を明らかにした。やがて、外征に際して三柱の御魂を船の上で祀るよう教え、神功皇后の新羅親征を守護した。新羅を服従させると、神功皇后は、杖を(新羅)国王の門につき立てて、墨江大神(住吉大神)の荒御魂を「国守神」として鎮座させた」とある。(國學院大學『三韓征伐』解説)


参考文献

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  • 金富軾撰、井上秀雄訳注『三国史記』第1巻、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年 ISBN 4-582-80372-5
  • 一然撰、坪井九馬三日下寛校訂『三国遺事』<文科大学史誌叢書>東京、1904年(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
南解次次雄
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