DC-3
| DC-3 | |
|---|---|
| 概要 | |
| 用途 | 旅客機・輸送機 |
| 乗員 | パイロット 2名 |
| 乗客 | 3列席21人、4列席28~32人 |
| 初飛行 | 1935 |
| 運用開始 | 1936 |
| 製造者 | ダグラス |
| 単価 | |
| 寸法 | |
| 全長 | 19.66 m |
| 全幅 | 28.96 m |
| 全高 | 5.16 m |
| 翼面積 | 91.7 m² |
| 重量 | |
| 運用 | 8,030 kg |
| 最大離陸 | 12,700 kg |
| 動力 | |
| エンジン | P&Wツインワスプ14気筒 または ライト・サイクロン9気筒 星形空冷;2 |
| 出力 | 1,200 hp×2 (895 kW×2) |
| 性能(目安) | |
| 巡航速度 | 266km/h |
| 最大速度 | 346 km/h |
| 航続距離 | 2,420 km |
ダグラス DC-3(だぐらす ディーシースリー)は、アメリカ合衆国の航空機メーカーであるダグラス・エアクラフト社(現ボーイング社)が開発した双発のプロペラ旅客機・輸送機である。1936年運用開始。アメリカ軍用輸送機としての制式名称「C-47 スカイトレイン」(C-47 Skytrain)、イギリス軍用輸送機としての名称「ダコタ」(Dakota)でも知られる。
目次 |
[編集] 概要
飛行性能と輸送力・経済性を高い水準でバランスさせた希有な機体であり、1930年代~1940年代において世界の航空輸送変革の原動力となった不朽の傑作機である。事実上、世界で最初の本格的商業旅客機と言って良く、その影響故に、第二次世界大戦後のジェット旅客機のボーイング707と747と並び、民間航空史上もっとも重要な機体の一つとされている。
1945年までに1万機以上が製造されたが、これは双発輸送機としては屈指の量産記録である。もっともその多くは当初連合国軍用輸送機C-47として製造され、第二次世界大戦後に民間輸送機仕様に改造されてDC-3となったものである。他に日本とソビエト連邦でライセンス生産が行われた。
[編集] 沿革
[編集] 開発の過程
[編集] DSTの開発
ドナルド・ダグラス率いるダグラス社が、トランス・ワールド航空(TWA)のオファーによって1933年に開発した試作機の「DC-1」と、次いで1934年に開発した「DC-2」は、低翼単葉の双発機であった。この旅客機は、全金属製モノコック構造や引き込み脚、可変ピッチプロペラ、高揚力確保のためのフラップの採用など、近代的旅客機に不可欠な構造をほとんど具備した進歩的な機体であった。1930年代の双発旅客機としては多い14名の定員も大きな長所で、当時の航空会社から歓迎された。
ジェット機出現より遙か以前の1930年代、北米大陸横断航空路はプロペラ旅客機でほとんど1昼夜を要した。アメリカン航空は1933年、このルートに寝台旅客機「カーチス・コンドル」を就航させた。しかしこの機体は鋼管羽布張り構造の複葉式であるなど古典的な設計を採っており、登場して間もない1930年代中葉には既に旧式化しつつあった。このためアメリカン航空は、DC-2をベースにした寝台旅客機を、ダグラス社にオーダーすることにした。
開発は1935年中頃から開始されたが、列車同様なプルマン・スタイル(プルマン寝台:1860年代にアメリカ人ジョージ・プルマンが開発した列車寝台の形式。中央通路式で、昼間の向かい合わせの固定座席を、スライドさせて線路と平行な下段寝台にできる構造。上段寝台は天井に吊り上げておき、使用時は引き下ろしてセットする)の開放式寝台を配置するためには、DC-2の機体幅はやや不足していることが指摘された。そこで機体幅が若干拡大された。
僅か半年余りで急ピッチの開発・製作が進められ(DC-2の拡大設計という点では有利であったにせよ、かなりの早業である)、1935年12月17日に初飛行したこの寝台機は、Douglas Sleeper Transport、略してDSTの名称で呼ばれた。DSTは14名分の寝台とキッチンを備え、途中一度の燃料補給のみで北米大陸を横断できる長距離快速機で、1936年に就航してアメリカン航空の看板旅客機となった。
[編集] DC-3
DSTはDC-2に比して機体幅が拡大されていたが、この大型化は良い方向に働いた。DC-2では客室中央通路の両側に1列ずつ計2列しか座席を配置できなかったが、DSTの幅員であれば片側にもう1列増やした3列配置ができたのである。従って寝台の代わりに通常座席を配置すれば、定員はDC-2の1.5倍、21人を確保できる(後には4列座席としてピッチを詰め最大32人定員としたケースもある)。
DST完成後すぐに派生型として、この通常座席型バージョンが開発された。これがDC-3で、1936年中に就航、瞬く間に当時のベストセラー旅客機となり、1939年までに600機以上が製造された。アメリカン航空、TWA、イースタン航空といった当時の一流航空会社がこぞって採用し、ヨーロッパでもルフトハンザなどに導入されている。
DC-3の偉大さは、DC-2に比して定員を5割増としながら、その運航経費は僅か3%ほどの増に過ぎなかったという事実である。それ以前のアメリカ合衆国の航空旅客輸送は、旅客運賃収入だけでは必要なコストを賄えず、連邦政府の郵便輸送補助金を受けることで何とか成り立っていた。ところがDC-3は、その収容力によって、自らの運賃収入だけでコストをペイできた。郵便補助金に頼る必要のない「飛ばせば儲かる飛行機」の出現は、航空輸送の発展における重要なエポックであった。しかも当時としては快速で、飛行特性も非常に安定しており、整備もしやすく扱い良い機体であった。これはDC-2から受け継いだ美点であり、まさに当時における理想の旅客機を具現したものであった。
[編集] 第二次世界大戦
DC-3の信頼性と絶大な輸送能力は、航空会社のみならず各国の軍関係者にも注目された。通常型の旅客設備を撤去した輸送機型とすれば、軍用輸送機としても非常に理想的な機体となるからである(輸送機タイプの貨物搭載能力は4.5t)。
[編集] C-47 スカイトレイン
詳細は「C-47 (航空機)」を参照
アメリカ陸軍航空隊は第二次世界大戦に際し、既存のダグラスDC-3を民間航空会社から139機徴用して軍用に用いたが、1941年にはDC-3の輸送機バージョンを正式に軍用輸送機として採用し、制式名称をC-47とした。
以後戦時中を通じて全力で生産が行われ、1945年までに約1万機を生産した。これらはイギリス空軍や南アフリカ軍にも供与され、「ダコタ」(Dakota)の呼称を与えられた。派生型として兵員輸送に重点を置いた設計のC-53も生産された。その用途は幅広く、兵器・食糧や兵員の輸送に用いられたほか、欧州戦線では空挺部隊のグライダー牽引機にも用いられたほどである。連合軍の主力輸送機として世界中の戦場を飛行し、戦闘による損失も多数生じた。
連合軍欧州総司令官であり、のちにアメリカ合衆国大統領となったドワイト・D・アイゼンハワーは、第二次世界大戦の連合軍勝利に著しく寄与したのは「ダコタ(C-47)とジープとバズーカ砲である」とコメントしている。1948年のベルリン封鎖における大空輸作戦でも、DC-3およびC-47は主力機となった。
[編集] 日本のDC-3
日本では中島飛行機が1935年からDC-2をライセンス生産し、日本航空輸送などで用いられ優秀機として高い評価を得ていた。ゆえに後継型DC-3への注目も早かった。日本海軍は1937年に設立された昭和飛行機工業に、ダグラス社からDC-3の製造ライセンスを取得させた。当初ノックダウン方式で生産、その後完全に国産化した。
エンジンは三菱の開発になる「金星」に変更され、日本海軍から零式輸送機(L2D2)として1940年に制式採用された。零式輸送機は、九七式重爆撃機をベースに三菱が開発し日本陸軍に採用された純国産軍用輸送機(陸軍主力輸送機)、一〇〇式輸送機(MC輸送機)と比べ最高速度・巡航速度で大きく劣るものの、反面搭載量では勝るなど性能は比較的優秀であった他、エンジン換装によりカタログデータ上ではC-47を一部上回っていた(この零式輸送機について「DC-3のデッドコピー」という説も流布しているが、実際には上記の通り正式なライセンス生産に出自を発している)。昭和飛行機と中島飛行機によって、1945年までに合計486機が製造された。
第二次世界大戦後にはアメリカ製のDC-3(後述のC-47払下機を含む)が、まず昭和30年11月に日ペリ航空に導入したのを皮切りにその後は日本航空(フィリピン航空からのウエットリース)極東航空、藤田航空、伊藤忠航空、長崎航空など、次々とDC-3を購入し定期路線に就航させた。しかし旅客機のジェット化に押される形で昭和39年3月15日に国内航空会社としては最後まで利用していた全日本空輸もDC-3を退役させて日本の旅客機からはその姿を消した。しかしその後も引き続き海上自衛隊で輸送型R4D-6が3機、機上作業訓練機R4D-6Qが1機供与され続け(愛称はいずれも「まなづる」)、日本航空機製造YS-11に代替されるまで運用された。また運輸省航空局にも導入されていた。
[編集] ソ連のDC-3
ソ連は第二次世界大戦中、連合国としての同盟国のアメリカからレンドリースによって700機のC-47を供与され、軍用輸送機としての大きな成果を上げた。その実績によってDC-3の製造ライセンスが取得されることになる。
ダグラス社に派遣された経験もあった技術者ボリース・リスノーフは、DC-3をもとに、ソ連の寒冷地・不整地向けに小改良を加え、ソ連製エンジンを搭載した輸送機「PS-84」を開発する。この機体は1942年以降Li-2の名称で軍用輸送機として量産され、対ドイツ戦で用いられた。簡易な爆撃機(爆弾を1tまで搭載)としての運用も行われた。1945年までに約2,000機が製造され、戦後はソ連のアエロフロート航空および東側諸国で旅客機・輸送機として有効活用された。
[編集] 戦後のDC-3
第二次世界大戦で生き残ったC-47の多くは、終戦後民間向けに放出された。それらは旅客機・民間輸送機としての設備・装備を加える改造を施され、新たにDC-3へと生まれ変わった。
「軍服を脱いだ」元C-47のDC-3は、無慮数千機がアメリカ国内のローカル航空会社、そして世界各国の航空会社に安く買い取られ、世界中にあまねく行き渡った。世界の航空輸送ビジネスは、この並外れて信頼性が高く、輸送能力と経済性に優れた機体によって、1940年代~1950年代に著しい発展を遂げた。日本の民間航空会社でも1950年代~1960年代中期にかけて、ローカル路線で用いられていた。
1950年代に入るとアメリカでは旅客機の大型化が進んだため、DC-3は過去の機体となったが、その他の世界各国では1970年代に至ってもローカル航空路や不定期輸送用として広く用いられていた。コンベアやフォッカー、アブロなど、世界各国の多くの航空機メーカーが、「ポストDC-3」となる機体の開発に取り組んだが、その名に相応しい成功を収めた例はない。DC-3の完成度がいかに高かったかを如実に示している。
ベトナム戦争では、C-47にGAU-2B/Aを搭載したAC-47がガンシップとしてベトナム民族解放戦線掃討に従事した他、冷戦下で起きた多くの内戦や地域戦争でも輸送機などとして従事した。
最初のDC-3が出現してから70年近くを経た21世紀初頭の今日でも、コロンビアのサデルカ航空等で現役であり、全体の現役機数は百機単位で存在していると言われ、旅客輸送にDC-3を用いている航空会社も少数ながら存在している。スカイダイビング用の飛行機として使われているケースも多い。軍事用にも再利用されており、南アフリカ海軍では現在も対潜哨戒機に同機を用いている[1]。
経年化対策を中心に機体に独自の改造を施されることも多い。
[編集] ターボプロップ改造型
南アフリカ空軍では1990年代初めに安全性の確保と運用コスト削減のため、保有するC-47をターボプロップエンジンに改造する動きが進められた。改造されたC-47は南アフリカ空軍の正式名称でC-47-TPとされている。その後、その改造キットは民間会社にも使用され、南アフリカではこの改造を受け持つ工場が作られ、民間型はBT-67という名称がついている。
ターボプロップエンジンはカナダPT-6A-67Rを使用している。重心の関係で、オリジナルのレシプロエンジンより、前に突き出している。また、改造には航続距離の増加も図られ、燃料タンクの増設により、距離は大幅に伸びている。
[編集] 主な導入航空会社
- トランス・ワールド航空
- アメリカン航空
- デルタ航空
- イースタン航空
- ピードモント航空
- ブラニフ航空
- コンチネンタル航空
- 全日本空輸
- 藤田航空
- 伊藤忠航空
- キャセイ・パシフィック航空
- フィリピン航空
- タイ国際航空
- オランダ領インド航空
- エアインディア
- サウジアラビア航空
- イベリア航空
- アリタリア航空
- スイス航空
- KLMオランダ航空
- エアリンガス
- スカンジナビア航空
- ラン航空
- ヴァリグブラジル航空
- VASP航空
- 南アフリカ航空
- サデルカ航空
[編集] その他
[編集] フィクションの中のDC-3
第二次世界大戦で活躍し、戦後は世界中のローカル航空路に翼を広げた機体だけに、映画や小説にもしばしば描かれた。たとえば映画「カサブランカ」のラストシーンで飛行場から離陸しようとする機のオリジナルはDC-3であったと言われている。
戦争物・冒険物の映画・小説にも欠かせない存在で、ギャビン・ライアルの古典的な航空冒険小説「ちがった空」(この作品においては主人公の愛機である「ダコタ」が、深い愛情をもって描かれている)、ジャック・ヒギンズの戦争冒険小説「鷲は舞い降りた」など、多数の作品で取り上げられている。零式輸送機も『太平洋の翼』などの戦争映画に登場している。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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