西郷吉之助
| 西郷 吉之助 さいごうきちのすけ | |
|---|---|
![]() 参議院議員時代の西郷吉之助 | |
| 生年月日 | 1906年7月20日 |
| 出生地 | 鹿児島県 |
| 没年月日 | 1997年10月12日(91歳没) |
| 死没地 | 東京都大田区 |
| 出身校 |
東北帝国大学経済学科卒業 (現東北大学) |
| 前職 | 南方開発金庫ジャワ支金庫業務課長 |
| 所属政党 |
(無所属→) (自由党→) (自由民主党→) (無所属→) 自由民主党 |
| 称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 侯爵 |
| 配偶者 |
西郷春子(先妻) 西郷寛子(後妻) |
| 子女 | 長男・西郷吉太郎 |
| 親族 |
祖父・西郷隆盛(参議) 大叔父・西郷従道(内務大臣) 父・西郷寅太郎(貴族院議員) 伯父・西郷菊次郎(京都市長) 再従兄弟・岩倉具栄(貴族院議員) |
| 内閣 | 第2次佐藤第2次改造内閣 |
| 在任期間 | 1968年11月30日 - 1970年1月14日 |
| 選挙区 | 鹿児島県選挙区 |
| 当選回数 | 4回 |
| 在任期間 | 1947年5月3日 - 1971年7月3日 |
| 選挙区 | (侯爵議員) |
| 在任期間 | 1936年7月19日[1] - 1947年5月2日 |
西郷 吉之助(さいごう きちのすけ、1906年〈明治39年〉7月20日 - 1997年〈平成9年〉10月12日)は、日本の政治家、華族。位階は正三位。
来歴・人物
[編集]鹿児島県で生まれ、東京で育つ[2]。学習院を経て、東北帝国大学経済学科卒業[3]。学習院時代の同期には日中戦争で戦死した南郷茂章などがいた。祖父隆盛と同じく、堂々とした体躯で知られた。
興銀に入り、その後は南方開発金庫の参事、ジャワ支金庫業務課長を経て、貴族院議員(1936年(昭和11年) - 1947年(昭和22年))、1947年鹿児島県選挙区より参議院議員に当選。以後当選4回。参議院議員時代は長らく、自由民主党に所属。
1954年には、東京都港区芝に建立された『西郷南洲(隆盛)・勝海舟会見の地』記念碑の銘文を揮毫している。
1968年11月発足の第2次佐藤第2次改造内閣で法務大臣に就任する。大臣任期中の1969年、かつてGHQ占領下で起訴された死刑囚の再審を規定した再審特例法案が提出されて廃案になった際に、6件7人の死刑囚に対して恩赦の検討を表明し、結果3人が無期懲役への減刑がなされた。
手形の乱発のほか、私設秘書や在日朝鮮人、暴力団などを使って議員会館内で債権者に暴力や恐喝を行う事件を起こし[4]、その問題は国会でも追及され、西郷は自民党を離党した。1971年の選挙では手形乱発事件の影響で無所属で出馬するが落選。1974年の選挙では復党し出馬したが再び落選し、政界から引退した。後年、西郷の秘書たちは、立場を利用して入港する船舶検査に手心を加えるよう各所に電話する日々であった、などと月刊誌『正論』にて証言している。
1986年春の叙勲で勲一等旭日大綬章受章(勲四等からの昇叙)[3][5]。
1997年10月12日、心不全のため東京都大田区の自宅で死去、91歳[6]。死没日をもって従三位から正三位に叙される[7]。
手形乱発事件
[編集]西郷は、1965年から手形を乱発、8億数千万円の借金を抱えていた[8]。手形の一部はえせ同和行為で羽振りの良かった日本同和清光会最高顧問・尾崎清光にパクられ、山口組にも流れていた[8]。そのため、西郷の元秘書官で、弟でもある下内田清は1970年暮れ、思い余って、それまで一面識もない山口組の田岡一雄組長を神戸の邸宅に訪ね、手形回収で協力してくれるよう求めている[8]。田岡は快く協力を約束して、山口組若頭だった山本健一に「体を張ってお力添えしろ」と命じた[8]。山本は下内田と2日間、寝屋川、京都、四国に出かけ、2億5000万円分の手形をあっさり回収してみせた[8]。
下内田は1978年になって、山本が大阪拘置所に収監されたとき、8年前のご恩返しとして大阪高検や大阪拘置所に働きかけ、1979年3月、ついに高検から山本の拘置執行停止をもぎ取っている[9]。同年4月、田岡は有馬温泉で下内田らを接待、礼金1000万円をよこしたという(下内田の話)[10]。
栄典
[編集]家族
[編集]脚注
[編集]- ↑ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、45頁。
- ↑ 明治~昭和,世界大百科事典内言及, 新訂 政治家人名事典. “西郷吉之助(サイゴウ キチノスケ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2025年2月21日閲覧。
- 1 2 「西郷 吉之助」『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』。コトバンクより2022年12月31日閲覧。
- ↑ 『噂の眞相』1984年4月号 竹田文昭「プロの殺し屋に射殺された"利権屋同和"尾崎清光の成金人生」
- ↑ 『官報』号外第59号11頁 昭和61年4月30日号
- ↑ “訃報”. 産経新聞. (1997年10月14日). オリジナルの2000年10月26日時点におけるアーカイブ。 2022年12月31日閲覧。
- ↑ 『官報』第2253号6-7頁 平成9年10月30日号
- 1 2 3 4 5 溝口 2006, p. 153.
- ↑ 溝口 2006, p. 153 - 154.
- ↑ 溝口 2006, p. 154.
- ↑ 『官報』第2007号「叙任及辞令」1933年9月7日。
- ↑ 『人事興信録. 第14版 上』1943年、西郷吉之助
- ↑ 『人事興信録』 38版上、1995年、西郷吉之助
参考文献
[編集]関連項目
[編集]| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 赤間文三 |
第25代 : 1968年 - 1970年 |
次代 小林武治 |
| 議会 | ||
| 先代 館哲二 新谷寅三郎 |
1955年 - 1956年 1968年 |
次代 苫米地義三 塩見俊二 |
| 先代 大矢半次郎 |
1954年 |
次代 青木一男 |
| 先代 岡本愛祐 |
1951年 - 1952年 |
次代 油井賢太郎 |
| 日本の爵位 | ||
| 先代 西郷隆輝 |
侯爵 西郷(隆盛)家第3代 1921年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |
