平沢三右衛門
平沢 三右衛門(ひらさわ さんえもん、1748年(寛延元年) - 1824年3月27日(文政7年2月27日))は、江戸時代後期の陸奥国弘前藩の武士[1]。1770年(明和7年)に家督を継ぎ、天明の大飢饉(1782年 - 1788年)後に、農地の復興や、新田開発を主導したことで知られる[1]。名は、はじめ貞次(さだつぐ)といい、後には利次(としつぐ)といった[1]。
経歴
[編集]1748年(寛延元年)、当時の弘前藩領広須組大畑村(後の青森県つがる市木造)に、弘前藩士であった平沢家三代半左衛門(はんざえもん)[2]、または、又左衛門(またざえもん)を父とし[1]、その長子として生まれ、幼名を吉三郎といった[2]。
1761年(宝暦11年)諸普請見習役となり、1770年(明和7年)に家督を相続して普請奉行添役となり、木造新田、広須新田、俵元新田の開発にあたることになった[2]。1772年(安永元年)以降、多くの新田開発にあたり、新たに4つの村落を立てたとして御目見以上となり、天明の大飢饉の時期には、飢饉によって窮乏・荒廃した25もの村を復興させ、その功績により、1794年(寛政6年)に留守居一番組に昇進した[2]。
1797年(寛政9年)には、処罰されて藩籍を失い、浪人となったが、許されて再び藩士となり、1803年(享和3年)に開発掛に登用されて、広須新田、木造新田、金木新田などの開発にあたって1818年(文政元年)までに3万石余りの増産を達成したという[2]。
逸話
[編集]三右衛門は新田開発に際して、自ら野宿しながら各地を調査して適地を求め、その新田開発に打ち込む姿は、「平沢農狂先生」と評されるほどで、この物言いを気に入った本人は、自ら「農狂逸人」と称したという[4]。
あるとき、須藤という津軽藩士が、三右衛門に剣術を極めてはと勧めたところ、三右衛門は、自分は鍬で石を割れるし、不作や飢饉と常々戦っているのだ、と応じたとも伝えられる[4]。また、食べることもままならない者がいるのに、余分なものを口にするのは悪だとして、酒や煙草を嗜まなかったともいう[4]。
三右衛門は、新田開発の先覚者として、南部の新渡戸傳と並び称されて、後々まで語り継がれ、1915年(大正4年)には、新渡戸らとともに従五位を追贈された[5]。
脚注
[編集]- 1 2 3 4 「平沢三右衛門」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社。コトバンクより2025年10月14日閲覧。
- 1 2 3 4 5 中泊町博物館「復興と産業振興-江戸後期- 平沢三右衛門」『中泊偉人伝人ものがたり』(PDF)中泊町博物館、2016年3月30日、11頁。2025年10月14日閲覧。
- ↑ 「東北農業の歴史・歴史年表 > 江戸時代」東北農政局。2025年10月14日閲覧。
- 1 2 3 「青森の偉い人 津軽開拓に生涯をかける/平沢 三右衛門(ひらさわ さんえもん)」JA青森中央会。2025年10月14日閲覧。
- ↑ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.32